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本日は月例のお仕事のために豊島区は池袋の地に下り立った。

 

はじめにお断りさせて頂きますが小生、池袋という街が好きではありません。

 

そもそも自分の用事はサンシャイン60。その昔は巣鴨プリズンがあったその跡地です。ってそんなこたーどうでもEとしても、思えばこの3年くらい月一でこのサンシャイン60に通うのが恒例となっていまして、実はこのビルが案外駅から遠いの。遠いだけならまだEとしても、まあ天井の低い地下通路の雑踏やら、地上に上がっても下品な店店が有象無象と軒をなす街頭、偽りのマスクを被ったティッシュ配りやら携帯電話の売り子やらをやり過ごしても、尚そこには浮き足立った若者が右往左往する往来が口を開けて待っているものだから、わずか200メートル進むにも辟易する。ああああああ、嫌だなあ、この街、と毎回思うのであります。

 

いやいや、それは池袋に限ったことではなくて、それこそ渋谷なり新宿なり六本木なりの方がその混沌としたメガロポリス的な雰囲気では勝っているのでは?という声も聞こえてきそうなものですが、これがまた違うのであります。

 

不思議なもので街という街、隣り合っているにしても必ずそれぞれのカラー、個性を持っています。渋谷と原宿、渋谷と表参道、渋谷と恵比寿、渋谷と代官山、それぞれ隣り合わせている街街にも関わらずお互い我関せずとまでは言わないまでも、着かず離れずな絶妙な距離感を保ってそれぞれの個性を伸ばしてきた感が伺えます。

 

東京という街の成り立ちから考えたら、やはり窓口となる中心部の駅から発展していったと考えるのが妥当でしょうし、古くからは新橋、上野、新宿、あたりが地方からの入り口として機能した駅になるのでしょうか。憶測が多分にありますでご容赦頂きたいのですが、ってああ、説明がくどくて長くなりそうなので、バシバシ要点だけ言わせて頂きますが、、

 

上野、神田界隈、新橋、銀座界隈は戦後の復興期はそれなりにオシャレなエリアとして発展した街として、それぞれ衰退の度合いは違うにしろ、当時の一線を張った気概を現在も残している。上野なんかは微妙じゃね?なんて声も聞こえてきそうなもんですが、あの街は世論に流されることなく自分を貫いている姿勢が感じられる。新橋が持つ地元密着型の呑屋街は今も健在、天下の銀座は言わずもがな。

 

そして新宿は大正期に中村屋が発信した国際色、60'sのゴールデン街文化よろしく、寺山修司、中上健次、荒木経惟的な世界観。歌舞伎町界隈は良い悪いは別にしても、一本筋の通った存在意義が根底にあります。雑多であるが、「うわっついた空気感が街を支配していない」。

 

そう、これこそが最も重要なのであります。池袋という街は「うわっついた空気感に完全に支配されている」のです。この街の個性をどこに位置づけて、どのようなカラーを打ち出して行こうか腐心している人間などひとりとしていないでしょう。取り合えずたくさん店あるしたくさん人集まるしイッパツ店でも出してみっか的な店で溢れ返っている。だから、池袋行けば店たくさんあるし、取り合えずイッパツ行ってみっか的な人間しか集まっていないのだと短絡的に思えるくらい、往来を闊歩する人種もなんともうわっついた奴らばっかりなのだから恐ろしい。

 

いやはや、かなり個人的な好き嫌いが入り込んだ、実に偏った小物の意見でありますが、上記の理由で小生は池袋という街が好きになれない。

 

通うようになって一年ほどして、サンシャイン60は実は有楽町線の東池袋が最寄りだと気が付いて以来、非常に快適に東池袋の裏通りを通って向かっています。あのうわっついた雑踏に揉まれることなく、快適快適。