2012/06/11

 危機意識に苛まれた我々国民の大勢が、絶対反対との旗印を全力で掲げている鼻面に、それはそれは正確無比、心労で強ばった我らの顔面に向かって純白のパイでも投げつけるように、「※注、これは食用ではありません」などの軽薄なテロップが愚かしい画面を大仰に覆っているほど無遠慮に、なんとも汚らわしいほど丁寧に、巧妙なほど稚拙に、「私は国の代表として国民の皆様、そして我が国の国民生活を最大に考慮しその最善の方法として、現在停止中の福井県大飯原発の3号機および4号機を再起動させることに賛成する立場であります」などとナマズとタヌキを足して二で割ったような顔面をした大層な中年男がそれらしく会見したのだからもう片腹痛い。残る一方の腹は、煮えくり返る怒りやら、どす黒い濁流となって決壊する憎悪やら、単純に無の境地に達しつつある締念などがぐちゃぐちゃ一緒くたになって、オレはぐったりとしてしまった。こんなにも一度に二度美味しい腹を抱えてオレは今一度、君に嘘をつこうと思う。

 「否否、絶対大丈夫だよ、結局再稼動なんかできっこないから!」

 

 ッ、ゴォーッッ、ルゥ!!

 

 実況アナウンサーがこめかみの薄皮を破裂せんばかりに絶叫したこの言葉は、少なくとも今夜君たちの耳に6回は響いたコトだろう。首相官邸に詰め寄って怒りを撒き散らした4千人、そして同時中継のUSTREAMにて流されたこのデモの映像をインターネット経由で参加していた他数千の怒市民(ド市民)を尻目に、テレビ画面に齧り付いて、人の頭蓋ほどの大きさのサッカーボールがゴールネットを揺らす瞬間を今か今かと固唾をのんで見守っていたことだろう。ナマズとタヌキを足して二で割ったような首相もまた、国民の大多数が日本の代表選に夢中になる晩を狙って、あの薄汚い所信表明を電波に乗せたのだ。人間の頭蓋を蹴飛ばすかの如く。

 

 卑怯者だ。一言でいえば愚劣な卑怯者以外何者でもない。今なお苦しみの深淵で苦渋を口一杯含まされているフクシマ。マスメディアには殆ど乗らない(情報を取捨選択しているメディア側が敢えて拾わないとした方が正しいかとおもうが)、彼ら一人一人の悲痛な叫びは一体誰の耳に届くと言うのか?福島第一原発から20キロ圏内に住んでいたが為に、半永久的に我が家に帰れなくなってしまった住人の行き場のない絶望感は、250キロ離れた霞ヶ関までは決して届いていない。一年三ヶ月経っても届かない現実。

 

時速0.02キロ。

 

 フクシマの悲痛な叫びはわずか時速20メートルの速度も持たないのだ。

 

 もしくは、スーパーソニック、超音速で飛び出したにも関わらず、霞ヶ関が拵えた聞く耳が、原子力ムラで悠々自適に暮らす屑どもが私利私欲を注ぎ込んで築き上げた防御壁があまりにも頑強でその速度を、その全力の叫びを亡きものとしている。あまりに強度のある利権が癌細胞のように絡み付いている。

 偶然20キロ圏内よりも少し離れていた為に強制退去を免れている人々、その中には避難したくとも出来ない現実を抱えたまま、地形と風向きが災いして毎日凄まじい量の放射線を浴びて暮らしている人々もいる。その出口の見えない不安や募る苦しみ、絶望的な孤独感もまた、皮肉なほど無力で、中央には決して届かない。

 

 ATOMS FOR PEACE. 

 

 半世紀も前に、またしても大国の押し売りで日本の国家政策として始まった原子力の平和利用は、広島長崎に世界で初めて原子爆弾が落とされてからわずか18年後の出来事である。戦災からの復興に向けた当時の「熱」というものは計り知れないものがあったのだろう。しかしだ、熟考なく進められた挙げ句、国民も戦後のトランス状態から抜け切れずにいた所為で判断能力が無いに等しかったのではないだろうか。戦後の経済成長、膨らみ続けるGDPを支えるほどのエネルギー資源を日本は当たり前のように持っていなかった。そんな心配は原子力発電が払拭するのだという魔法を、国民はいとも容易くかけられた。ほんの一部の人間に病的な権益をもたらすように、ほとんど洗脳に近いカタチで整備されたこの原子力平和利用のシステムは、国家レベルで秘密裏に、実にコソコソと進められたのだ。

 

 国民の大部分は盲目的に「安全」だと信じ込んでいた、もしくは今の生活が快適便利で何不自由ないしまあ少し危険で宜しくないと心のどこかで分かっていても何を言うでもなく、原子力によって作られた電力を当たり前のように享受していた。そして自分もまたその一人だった。今となってはその罪の意識、「原罪」に捕われた大多数の日本人は敢えて口をつぐんでしまっている現実も見え隠れしている。でも今こそ声を上げるべきだと思う。今ならまだ引き返せるから。間に合うから。

 もちろん原発を誘致した自治体はそれによって国から補助を受けて財政を回していたのだし、地元の雇用創出に絶大なる力を与えた。しかしどんな理由があれ、もう見て見ぬ振りはできないのではないか?人類には手に負えない狂気だということは、火を見るより明らかになったのだから。

 

 我々は過ちを犯した。それを素直に認め受け入れるときだ。

 

 2011/03/11までの過ちを十字架として、それぞれ背負って生きて行こうではないか。

 

 神話とされたシステムが崩壊し、現在の人類の力では修復不可能な被害をもたらし、腐敗し切った内政が明るみに出た今、歩みを揃えて踵を返すときではないのか?みんなそれは分かっているのに、何故「声」がひとつになって中央まで届かないのか?あるいは届いているのに、聞こえないふりをされているのか?憤っている人間は大勢いる。怒り狂っている民の声は結集して力を持つ時が来るのか?行き場のない無力感に苛まれるばかりだ。敢えて関係のない顔をしてネクタイ絞めて通勤通学に勤しむ奴らは一体どういった了見で生きているのか?分からない。分からないことが多すぎる中、ただ悠然と大都会の毎日は繰り返されている。根気よく焙煎された珈琲を飲みながら陽が燦々と降り注ぐパティオで、世界の不安から敢えて目を伏せるようにして皆楽しそうにお喋りに興じている。FACEBOOKのいいね!ボタンをひとつでも多く押しながら薄っぺらな交遊関係にしがみついている。自らの営業に有利に働きそうなツイートを血眼になって探しては、リツイートの機会を伺っている。仲良しごっこの毎日を精一杯生きている人間に、心理の眼を期待しても無駄なことは承知している。でも哀しいかな、我々の周囲はそんな人間で溢れ返っているのもまた事実だ。

 さて、オレはどのように生きて行こうか?日々ただ純粋に考えたい。酒を呑んでも、本を読んでいても、仕事をしていても、子どもと遊んでいても、食事を用意していても、頭のどこかで考えている、今の日本社会が向いている方向の危うさを。矛盾を。一体どこに解決の糸口があるというのか?こんな文章にした所で何も解決しないのはわかっている。でも思いは言葉にしなければ何も伝わらないのだから。